説明会開始時間ギリギリに現地に到着してみると黒山の人盛り。
何と約130名が参加しているとのこと。凄い!!
議員さんを始め、里の旅ものがたり館の遊学ボランティア、ジオガイド、まちづくり協議会、三重中学校同級生、近所の先輩等々、知った顔、顔、顔!!
皆さんが色々な視点で1,600年ほど前の遺跡発掘に想いを馳せて参加したのだと思うと胸が熱くなった。
これ程の求心力を持った郷土の歴史遺産に改めて畏敬の念を抱いた。
<説明会内容>
・日時:平成30年1月8日(月・祝)13時30分~14時30分
・現地:三重中学校第2グランドの隣
・主催:豊後大野市古墳文化を考える会
・協力:別府大学文学部考古学研究室、豊後大野市教育委員会
・背景及び経緯:
豊後大野市三重町には前方後円墳と呼ばれる県指定史跡の大型古墳が6基あり、県下では宇佐と並ぶ集中地域である。
卑弥呼の時代の少し後、3世紀~5世紀、この地域ではヤマト政権と同盟を結んだ豪族(王)が日向方面と肥後方面の分岐点として活躍したと考えられている。
これら古墳の中でも謎の多い重政古墳について、豊後大野市教育委員会が国、県、別府大学等の支援、助言を得ながら一部発掘調査を行った。
これまで(平成7年度)の調査で壺型埴輪が見つかっていて、格式の高い古墳であることが判っている。
・調査区位置図(平面図)
・「豊後大野市古墳文化を考える会」の渡辺円世会長の挨拶
・豊後大野市歴史民俗資料館の諸岡さんによる説明会資料の説明
今回は平成7年度に続く2次調査で、古墳の大きさや形を調べるため3箇所の調査区トレンチ(4~6T)を設定して掘り下げた。~調査区位置図参照
現場説明は参加人数が多いので2班に分かれての実施となった。
・4トレンチを下から見た状況
前方後円墳の後円部にあたる。
・4トレンチ断面の模式図
写真で判る様に古墳端の葺石(ふきいし)を確認することが出来た。
・古墳端の葺石の敷き詰め状況
葺石は角ばった石が殆どであり、川の上流から採石したものと推定される。
全長52mの前方後円墳の全周に亘ってこの葺石が敷き詰められている訳で、この重政の高台に何処から大量の石をどうやって運んで来たのだろう?と思ってしまう。
・斜面の葺石の上には壺型埴輪の破片が見つかった。
(串棒が刺してある2箇所/A、B)
この類の埴輪の破片が今回の発掘調査で多数出土している。⇒レポート最後の写真参照
・壺型埴輪の破片A
・壺型埴輪の破片B
・5トレンチを下から見た状況
前方後円墳の前方部と後円部の境界部を想定。
このトレンチでは古墳端の葺石の状況が明確に確認出来なかった。⇒次年度以降の調査課題として残る。
・6トレンチを上から見た状況
前方後円墳の前方部で三重盆地の中心部を見下ろす台地端に造られている。
そう言えば我家の先祖の墓地(土葬)も以前は山の中腹の見晴らしの良い場所に有ったなー。(写真の左端に見える様な)
このトレンチでは古墳端の葺石を確認することが出来た。
・今回の発掘調査で出土した多数の壺型埴輪の破片
・今回の発掘調査で得られた結論(説明会資料より抜粋)
- 古墳の規模
葺石の確認により築造当初の姿が分かった。後円部は想定よりやや外側に葺石の端(墳端)を確認し、前方部は想定より内側になる可能性がある。また、6トレンチでは段築らしい葺石の確認により、少なくとも2段築成による構造と考えられる。
- テラスの周溝
古墳の周りにはテラス状の平坦面が設けられている。また過去の調査で不明だったが、後円部の周囲に幅2m程の溝が堀り巡らされているのを確認した。
- 築造時期
これまで壺型埴輪の破片が確認されていて、その特徴から5世紀に築造された時期が推定されている。埴輪は古墳の上やまわりに並べられた土器(焼き物)で、底に穴が開けられて作られている。
※埋葬遺構は不明であるが後円部墳頂の地中にあると推定されている。
以上の如く今回の発掘調査では数々の新しい事実が確認されて、重政古墳の史実を解明する上で貴重な調査だったのだろうと感じました。1豊後大野市民として12月下旬の寒い環境の中で、その実務を担って頂いた別府大学文学部考古学研究室の学生の皆さんには心から感謝申し上げます。ありがとうございました。
重政古墳に限らず、今後、豊後大野市の古墳の発掘調査が行われる場面では可能な範囲で市民ボランティアへの呼びかけが行える様にしたら良いのではと思ったりしました。(より多くの市民に関心と興味をもって頂く仕掛けとして)
野尻(記)